「残念なお知らせがあります。」
これは生後1か月の次女を一目見た、区の保健師から言われた言葉でした。
1歳の誕生日におすわり出来なかった次女について①(出産~6か月)
保健師は、その後、次女の「舌小帯短縮症」について話してくれました。
母乳の飲みの悪かったことなどが合点がいき、その方にはとても感謝しています。
しかし、その後も「残念」という言葉だけががどうしても心に残ってしまうのです。
生後1か月で「残念」烙印を押されてしまった次女が、かわいそうに思えてなりませんでした。
平均的に成長がしていくことが本来の望ましい形ですし、
その成長から少しでもそれている子供に対しては、早めに対応していくということが、
早期発見に大切なことだとは私も思います。
けれど、それから外れている=”ざんねん”なのでしょうか。
何を言いたいかというと、”ざんねん”の基準は自分で決めるものだと思うのです。
その後の娘の成長で、不安なところもたくさんありますし、
いつまでも寝たきりの子供になるかもしれないと、眠れない日々もありました。
けれど、結局どんな子供だったとしても、それを丸ごと受け入れて、
その子の笑顔を少しでも増やしてあげて、楽しいことを一つでも教えてあげることが、
親の使命だなあと考えるようになりました。
私をそんな考えにしてくれたのも、スムーズとは言えない次女の成長のおかげなのです。
つまり何が”ざんねん”かなんて、誰にも言えないんです。
自分の世界観で〇や×、かわいそうなど考えがちですが、結局は本人次第なんですよね。
障害があっても親に受け入れてもらえない子供は、かわいそう。に入るかもしれないですが…
それにしても、究極他人は何も言えないんですよね。
(その保健師さんには、悪気はなかったはずです^^;)
日々幼児教育だなんだと言っていても、
本当に大事なのは、”今”の子供を先入観なく、純粋に受け入れてあげること。かもしれない
と思った次第です^^